うさぎりんご
「お、上手いやん」
目の前で、細くて長い指が器用そうにナイフを扱っている。そこからどんどんと伸びて行く、赤と白の薄い皮。彼の意外な行為に思わず感嘆の声が出た。
寺の自室で。学校帰りに寄ったサッカー部部長と何となく時間を過ごしていたら、寺の下宿人の一人から差し入れが来た。渡されたのは白い小さなビニール袋。中を見ると、真っ赤なリンゴが幾つか並んでいた。和尚が檀家さんから箱で貰ったとの事。数が多いので、皆の所にもお裾分けと言う訳らしい。
良かったら水野も食べて、の言葉に、ご馳走になりますと茶色い頭が律儀に下げられた。
部屋を出ていく同居人にお礼を言って見送ると、袋から一つリンゴを取り出す。
「早速イッコ、頂くかな。たつぼんも食う?」
「あ、じゃあ、一個貰う」
はいな、と腕を伸ばしてリンゴを一つ手渡した。パーカーで2、3度こしこしとそれを擦ると、そのまま自分の口の方へと持って行く。赤くて美味そうだ。
「シゲ、お前、そのまま食うのか?」
口に入れる寸前に、驚いた風な声が飛んで来た。
「食うよ。なんで?これ、自前の歯やで。リンゴくらい丸齧り出来るけど」
「誰が入れ歯かどうかの確認をしたよ。この年で入れ歯でどうすんだよ、じゃなくって、剥かないでそのまま食べるのか」
「え、めんどいやん、わざわざ剥くなんて。別にこのまま食べれるんやから、このままでええやん」
言いながら、再度リンゴを口の方へ持って行く。
と。
「ちょっと待て、シゲ」
「なんやの」
「ちょっと待ってろよ、そのまま。食うなよ」
言うなり、サッカー少年はその俊敏性を活かして、慌てて俺の部屋から出て行った。廊下から階段へ。走って行く音がする。半端に口に運ぼうとしていた腕が間抜けだ。
どうやらお坊ちゃまには、リンゴの丸齧りなんて風習はないらしい。皮が付いてる物なんて食べられないと言う事か。全くお上品やなぁ、と呆れながらも、言い付け通りにそのまま待っている俺は、結構健気なヤツかもしれない。
皮を剥いて食べるのはいいとして、あの不器用を絵に描いた様なたつぼんに、ナイフでリンゴの皮剥きなんて出来る筈もないだろう。結局それは俺の役割なんだろうと思う。メンドクサイ。別にこのまま食べたってええのになぁ、とリンゴに向って話し掛けた。そうですね、と赤い果物から返事は返っては来なかったけど。
少しして、階下の台所から探して持って来たのだろう。戻って来たたつぼんの左手に果物ナイフが握られていた。待たせたな、と座り込んで律儀に持ったままだったリンゴを俺の手から取り上げる。
「…え、何すんの、たつぼん」
「何すんの、ってこういう状況で他にする事、あんのかよ」
たつぼんの左手にナイフ。右手には赤いリンゴ。ひょっとして、自分で剥く気なんだろうか。
「やめとき、たつぼん。俺が剥いたるから。ほら、それ寄越し」
勉強もスポーツもなんでも器用にこなすこの優等生の、不思議な弱点。それは手先が不器用だと言う事だ。自分が人並み以上に器用に出来てるから、更にそう思うのかもしれないが、この坊ちゃんの不器用さは時には目を被いたくなるほどだ。
そんなたつぼんに刃物を持たせるなんて、そんな危険極まりない。指をスパーっと切る所なんて見たくもない。慌てて身を乗り出して、その危険物を取り上げようと腕を伸ばした。
「お前、何すんだよ、危ない」
「危ないのは自分やん。たつぼんに果物の皮を剥くなんて高等技術、出来る筈ないやろ」
「失礼なヤツだな、お前は」
「そんな事言ったって、桜上水の常識やん、たつぼんのぶきっちょは」
そんな常識あるか、とナイフを取られまいとするたつぼんが身を反転させる。いいから。ちょっと見てろ、と断固とした口調で言われ、しょうがなく身を離した。ふん、と勝ち誇った様に言った後、リンゴにナイフを寄せる。
幼稚園児の我が子が包丁を使うのを見ている母親と言うのは、こんな心境なんだろうか。そんな母の気持ちでたつぼんの行為をはらはらしながら見ていると。
「お、お?お?」
目の前で意外と器用に皮を剥くたつぼんの姿がそこにあった。くるくるとリンゴを回転させながら、剥かれた皮が長く伸びて行く。手付きも中々堂に入っている。段々と長くなって行くそれは厚過ぎず、薄過ぎず、丁度いい厚さだった。
伸びた皮がぽとりと下に落ち、現れた白い果実を四半分に切って芯を取った所で、ほら、と手渡される。おおきに、としげしげとそれを見た後に一口齧る。甘酸っぱい味が口の中に広がった。
「たつぼん、リンゴの皮剥き、上手いやん」
綺麗に剥かれた実を飲み込んだ後でそう言うと、そうか?と言いながらもその声には自慢げな響きが混じっている。
「これくらい、俺にだって出来る」
2つ目に手を伸ばし皮を剥き始める。再び、細くて薄い皮がするすると伸びて行く。
「手馴れてるなぁ、たつぼん。自分がこんなん出来るなんて知らんかった。意外やわぁ」
お前、驚き過ぎ、と言いながらも、満更ではなさそうに笑顔が広がった。
「ひょっとして、練習したん?」
「…まぁな」
笑顔が消えて、代わりに苦い顔が出現する。
「前に孝子にさ…」
「孝子さん?」
「あいつが、前にうちでリンゴの皮剥いてたんだよ、こんな風に。そん時、皮が途中で切れないで綺麗に一本に繋がっててさ。俺、思わず、上手いなぁ、って感心して言っちまったんだ」
「うん」
自分の分を剥き終えたたつぼんが、一切れ口に放り込んだ。しゃくしゃくと小気味良い咀嚼の音がする。
「美味いな、これ。…そしたら、あいつ。あんた、こんな事も出来ないのって、思いっ切り人を小馬鹿にした様な口調で言われてさ。ムカツイた、あん時は」
その時の事を思い出しているのか、表情は苦いままで。
「で、悔しくて練習した、と」
「そ。母さんに教えて貰って特訓した」
負けん気の強いたつぼんの事だ。馬鹿にされて黙っているわけがない。その行動は必然だ。ただ、その時の真里子さんの心境は、きっとさっき俺が感じたのと同じ様な物だったに違いない。そしてたつぼんがこれ程の腕前になるまで、果たしてどれくらいのリンゴが消費されたか気になる所だ。でもそんな事を尋ねるのは、野暮と言う物だろう。
「めっちゃ上手く剥けてるやん。特訓の成果、孝子さんに見せた?」
「当たり前。一番に見せたさ。けど、あいつ、まぁまぁじゃない、とか言いやがって。それがまたムカツイたけどな」
あの美人さんの気持ちは手に取る様によく分かる。百合子さんも孝子さんも、この直ぐムキになる甥っ子をからかうのが楽しくてしょうがないのだ。全く、あいつは、とぼやく渋面を見て、気付かれない様に下を向いて笑った。
「あ、それからな、シゲ。こんな事も出来るぜ」
お前、出来る?と新しいリンゴを一つ手に取った。
「何?」
「ちょっと見てろ」
手元を見ているとそれを四半分に切って、赤い皮の方に切れ目を入れて行く。小さく皮を剥いて更に切れ目を入れる。
「それも真里子さんから教えて貰ったん?」
「そう。俺、小さい時、これが好きだったんだって。自分じゃ覚えてないんだけど」
「そーなん」
二人でたつぼんの手元を見詰める。手際の良い作業の後に出来上がった物は、うさぎの形をしたリンゴだった。ほら、とちょこんと手の平に乗せたそれを見せる様に、こちらに腕を向けた。
「ほー、上手いやん」
赤と白の、綺麗な形に仕上がった小さなうさぎがたつぼんの綺麗な手の平に乗っかっている。感心して言うと、だろ、と俺の誉め言葉を素直に受け取った。その顔は、子供が誉められて嬉しくて堪らない、と言った顔をしている。
サッカーでは、どんなに難しいテクニックを決めてもそれが出来て当然、のポーカーフェイス。たつぼんがそこまで行き着いたのは、決して才能だけのせいなんかじゃなく、人一倍の努力と練習の賜物だ。でもそんな事は一切表には出さない。
それなのに、こんな事でこんなに無邪気な得意げな表情をするなんて。ちょっと不意打ちだ。
不器用だと決め付けていたたつぼんが、果物ナイフを上手に扱える事を今日初めて知った。リンゴは皮を剥いた方が美味しく食べられるのは確かだけど、ひょっとして自分がそれを出来るのを俺に見せたくてわざわざナイフを取りに行ったんじゃないか、なんて思ってしまうのは勘ぐり過ぎだろうか。でもそう思ってしまうほど、目の前の笑顔は得意げだ。
「…可愛ええなぁ、ほんまに」
「食ってもいいぞ。これ、お前に上げたんだから」
可愛いと言ったのは、たつぼんを指したのに、当の本人は自作のうさぎのリンゴの事と思ったらしい。食ってもいいなんて、なんて嬉しい事を。自分の口元が緩むのが分かった。
「ほんまに?食ってもええん?」
「いいよ、食ってみて」
ありがとうございます。本人のお許しが出たので、早速頂きます。
取り敢えずその口元に素早くキスをすると、甘いリンゴの味がした。
終(2006/10/22)