友だち


俺を抱き締めていた熱い腕が、名残惜しそうに離れて行く。晒された肌に当たる空気が、火照った体に心地良い。頭の少し上から囁くような、労わるような声が降って来た。

「…大丈夫?たつぼん」
「…うん」
「ノド、乾いてへん?」
「…乾いた」
「何か、飲み物取ってくる?」
「…うん」
「何がええ?」
「…なんでも」

ほんまに大丈夫かい、とシゲが笑った気配がした。本当は全然大丈夫じゃない。体は重いし、だるいし、痛いし。頭も同様だ。今まで経験した事のない種類の脱力感。返事をするのも億劫なのだ。

電気は消してくれ、と俺が言った。部屋はそのままの状態で、窓の外から入ってくる淡い外灯のお陰でぼんやりと物の輪郭が見て取れる。その辺に脱ぎ散らかした服を、シゲが身に着けている。Tシャツを着た後に、ちょっと待っとってな、と言いながら、俺の頭を撫でた。返事もせずに、その優しい感触を味わう。

シゲが部屋を出て行く時、少しだけ入って来た廊下の灯りが眩しかった。早く戻って来い、と心の中で呼び掛ける。ゆっくりと瞬きをすると、瞼の裏がじんわりと熱かった。

凄く、静かだ。何の音も聞こえてこない。風が少しでもあると古い窓はガタガタと揺れるのに、今日はそんな音すらない。俺がこの部屋に来た時、他の住人たちは誰も居ないとシゲが言っていた。でもあれからかなり時間が経っているし、今はどうなんだろう。誰か帰って来てるのだろうか。あまりに静か過ぎて、この世に居るのは、シゲと自分だけなんじゃないだろうか、なんてあり得ない事を思ってしまう。

大きく息を吸うと、シゲの匂いが鼻孔に流れ込んで来る。すっかり来慣れたこの狭い部屋。シゲは片付けるという事を知らないし、空調は最悪だし、快適さからは程遠い。それでも、ここが自分に取って、どこよりも落ち着ける空間になったのは、シゲの部屋だからだ。シゲと2人きりになれるからだ。シゲの匂いが染み込んでいるからだ。ここで、話をしたり、それぞれ雑誌を読んだり、キスしたり。そんな2人だけの時間を、心置きなく過ごせるからだ。

中学生なのに。増してや男同士なのに。ここでシゲとキスする度に、自分の中で響く声。後ろめたい気持ちはいつも持っている。シゲへの想い。クチビルを合わせる事。本当は捨てなきゃならない。してはいけない。いつもそう思いながら、シゲとキスしているうちに、段々と小さくなって行く自分への警鐘。行為に酔って、呑まれて、溺れて、後ろめたい気持ちなど、うやむやになって消えて行ってしまう。シゲを好きだという感情は、理性や常識でねじ伏せられない程、いつの間にか強く大きくなってしまっていた。

薄暗い部屋の中、その辺りに散乱している物が目に入る。読み掛けの雑誌、袋の開いたスナック菓子、学校指定から程遠いバッグ。シゲの部屋だ、と思わず頬が緩む。偶には片付けろよ、と小言を言う事もあるけど、この部屋が綺麗に整頓されていたら先ず感じるのは大きな違和感だろうな。この適当に物が散らしてある事も含めて、シゲの部屋なのだ。自分がどこよりも落ち着ける空間なのだ。

体の奥が重い。だるい。痛い。こんなんで明日、大丈夫だろうか。ちゃんと走れるだろうか。シゲはさっき、普通の足取りで部屋を出て行った。あいつはなんであんなに普通なんだ。俺はこんなに疲れ切っているというのに。シゲが戻って来たら、そう言って八つ当たりしてやろう。そう言える元気があったら、の話だけど。

『中学生なのに。増してや男同士なのに』

さっき、シゲに押し倒された時、シゲに言った言葉。自分でいつも思っていた言葉。それを、シゲに向かって言った。キスする度に、エスカレートして行った。濃密になって、時間が長くなって。シゲがその先に、進みたがっているのは、分かっていた。自分もその気持ちが全くない、という訳ではなかったけれど。

初めてする行為。怖いと思う気持ちも当然あった。増してや男同士。同性で体を繋げるなんて、不自然な行為をしていいのだろうか。キスをするのだって後ろめたいのに、それ以上の事をするなんて、許されないんじゃないだろうか。

でも、自分の中で、とっくに答えは出ていた。後ろめたくても、不自然でも、許されなくても。シゲが好きだから。だからシゲが欲しい。シゲと一つになりたい。

中学生なのに。増してや男同士なのに、とシゲの下で、形だけの抵抗のように目を見つめて言うと、そんなの関係ないやん、と事も無げに言われた。好きなら、そんなのどうでもええ事やん、と。あまりにも何でもない事のように言われて、思わず笑ってしまった。好きなら、関係ない。きっと、そう。好きになったのがシゲだった。そのシゲが男だった。ただそれだけ。そんなシンプルな想いに流されてしまおうと、痛んだ金髪を抱きしめた。自分の中でも答えは出ていた。それをシゲの口から聞いて、確認したかっただけだ。

体は重いのに、頭は変に冴えていて睡魔は全く訪れて来ない。シゲは今頃、階下の冷蔵庫を物色しているのだろうか。喉が乾いた。早く何か、飲みたい。早く戻って来い。早く俺の側に来い。

後悔は全然していない。好きなやつと体を繋げたのだ。後悔なんて、する筈がない。今感じているのは幸福感と満足感。しんどい体とは裏腹に、心は満ち足りている。

きっといつまでも、覚えてる。シゲの匂いのする、薄い布団。物が散らかった、薄暗い部屋。物音が何も聞こえない、静かな空間。体の重さと共に、きっといつまでも忘れない。

それでもさっきから、胸の奥に浮かんでいるこの感情。淋しさと切なさと。これは後悔から来る物ではなく、なくした物を惜しむ感情だ。

俺たちはラインを超えてしまった。もう引き返せない一線を超えた。俺が、俺たちがなくした物。それは、くすぐったくも優しい響きの、友だちという関係。中学に入って初めて出来た、一緒に居て楽しい、何でも話し合えた、気心の知れた佐藤成樹という友だち。それは、もうどこにも居ないのだ。

そう思うと、淋しさと切なさが胸一杯に広がるのを感じた。瞼を閉じると、裏側に熱い物が込み上げて来た。あいつが戻ってくるまでの短い時間。ほんの少しだけ、泣いてしまいそうだ。


シゲは近くに居る。俺の一番側に、これからずっと。でも友だちの彼は、もう居ない。居なくなってしまった、その優しかった存在を惜しんで。

終(2009/07/07)
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