天使のうた
「あ、この曲…」
部活の帰り道。人気のない住宅街の道をたつぼんと歩いていると、その彼がふと足を止めた。
「何?どした?」
「いや、この曲が…」
曲、と言われて耳を澄ませると、どこからか小さく聞こえてくるピアノの音。子供が弾いているのだろうか。たどたどしいメロディーが微笑ましい。
「今の曲?ピアノやろ?」
再び一緒に歩き出す。どした?ともう一度問えば、いや、懐かしかったから、との答え。
「昔、その、弾いたんだよ。…ピアノの発表会で」
「誰が?」
「…俺がだよ」
「え、自分、ピアノ習っとったの?」
渋々、と言った風な言い方に、驚いた声が出た。見るとその顔が決まり悪そうに俯いている。
水野家の居間には立派なピアノがある。女性が多い家だし、誰か弾く人が居ても不思議はないと、別に気に留めてもいなかったけど、このサッカーにしか興味がなさそうな茶髪少年もその演奏者だったとは。
「なんで隠しとったん?」
「いや、別に隠してたわけじゃ。そんな話が出なかっただけだし。…お前も聞いて来なかったし」
段々と語尾が消えて行くその言い方から、あぁ、隠してたんだな、と内心可笑しく思った。別にたつぼんがピアノを習っていたからと言って、からかったりなんかしないのに。逆に、そんな事も出来るのか、と新鮮な一面を見られていいのに。
ほんの微か、まだ耳に届いて来るピアノの音。なんて曲やの?と聞けば、やはり渋々、と言った風に、天使のうた、と言う答えが返って来た。なんて可愛らしいタイトル。たつぼんにぴったりやん、なんて言おう物なら、怒られるのは目に見えているので心の中だけで思う事にする。
「でも意外っちゃー意外やな。たつぼん、そう言うのに興味なさそうだと思ってたけど」
「自分がやりたくてやってたわけじゃねぇよ。ほとんど母さんの趣味だったし」
「あー、なるほど。真里子さんに言われてやってたと」
「…まぁな」
例え親にやらされていたとしても、この真面目で几帳面なぼんの事だ。レッスンもきちんとこなし、お行儀の良い優等生な生徒だったんだろうなと思う。
それに見目麗しい、容姿端麗な王子様。ピアノなんて演奏する姿は、凄く絵になりそうだ。
是非、見たい。
「なぁ、今度たつぼんち行った時、ピアノ聞かせて。たつぼんのピアノ聞きたい」
「え、習ってたのずっと前だし、ちょっとしかやってなかったから。今は全然弾けねぇよ」
「別に難しいの弾いてなんて言ってないやん。弾けるのでええから」
「弾けるのなんて一曲もねぇ。無理だ、無理」
絶対無理、と頑なな拒否に、えー、と言う声で抗議するも受け付けては貰えない。
「たつぼんの『天使のうた』聞きたい」
「そんなの弾いたの、ずっと昔。もうすっかり忘れた」
それでもさっき、その曲に反応して懐かしそうに聞き入っていたくせに。
「あ、でも発表会ならきっとビデオ撮ってるやろ。それ見せて」
実際に見るのが無理なら、せめて昔の映像でも。
いい事を思い付いた、と自分の手を打てば、たちまち猛烈な拒絶の言葉が湧き上がる。
「え、駄目だ。絶対に駄目。って言うかそんなのない。撮ってない」
「えー、撮ってるやろ、可愛い息子の発表会やもん」
「ないない、撮ってない。そんなのないから見たがっても無駄だぞ」
無駄無駄言いながら、ずんずんと足早に歩いて行く背中を見て、あー、これは見せては貰えないな、と苦笑した。あの様子じゃビデオはあるに決まってるけど。
ちっこいたつぼんが、一生懸命サッカーボールを追い掛ける姿は簡単に想像出来る。でもちっこいたつぼんが、一生懸命ピアノを弾いている姿はちょっと想像し難い。自分の知らないたつぼんが居るのは悔しいので、彼の居ない時にでも真里子さんに頼んで、ビデオを見せて貰おうか。
もしもそれがばれて、機嫌を損ねた時の言い訳は。
『やってたつぼんの事なら、なんでも知っておきたいんやもん』
そんな感じで。
終(2007/02/04)