水滴
改札口を抜けて二人で無言のまま階段を降りる。ホームに電車は既に入っていた。ほんの少しだけ胸が波打った。シゲを遠くに連れて行ってしまう、その乗り物を見て。
「まだ少し時間があるな」
「そうだな…」
乗車口を確認して、その入り口近くに二人で佇む。所在ない居心地の悪さが二人を包んでいる様だった。意味もなくホームを見渡す。忙しく行き交う人々。引っ切り無しに流れるアナウンスが喧しい。シゲに気付かれない様に、小さく溜息を吐いた。
シゲが肩に掛けていたあまり大ぶりではないバッグを下ろした。家財道具など持たないシゲの、それが引越し道具の全て。京都からほとんど身一つで家を出て来たと言うシゲは、やっぱりその身一つで故郷に帰る。
俺を置いて。
見送りなんていいと言うシゲに、ほとんど強引に着いて来た。
『どうせ春休みで暇なんだから、それくらい時間潰しさせろ』そう言うとシゲは、『俺の見送りは暇潰しかい』と可笑しそうに笑った。
『やけどなぁ、俺がいなくなった後、ホームに残されたたつぼんが一人で泣いてると思うと、後ろ髪引かれて行けるもんも行けなくなってまうからなぁ』
『誰が一人残されて泣くかよ。お前の方こそ、電車の中で一人で大泣きするんじゃねぇの?でっかい図体して恥ずかしいぞ、それ』
『あー、そやなぁ、その可能性もあるかもなぁ。シゲちゃん一人でおんおん泣いてまうかもしれんわ。たつぼんが居らんー、って』
『いや、だから恥ずかしいって、それ』
笑い方も話し方もいつものシゲのそれだったけど、何となく目だけは笑っていない様な気がした。だからいつもと同じ筈の笑顔がなんだか淋しい物に見えた。シゲのそんな顔を見るのは初めてだった。それは俺を切ない気持ちにさせる物だった。
ホームに佇む二人の横を人が通り過ぎて行く。これでしばらくシゲとは会えないんだから、何か沢山言いたい事がある様な気がする。言わなきゃいけない事がある様な気がする。でも思いとは裏腹に、何を、どう言っていいのか分からなかった。言葉が口から上手く出て来なかった。視線を泳がせた末に、俯いて自分のスニーカーの先っぽを見る。
だけどそれはシゲも同じなのか、普段は饒舌な男の口が珍しく今日は重かった。会話にならない様な言葉の羅列が、二人の間を途切れ途切れに往復する。
「…元気でやれよ」
「おう、たつぼんもな」
「着いたら電話するから」
「…うん」
「…忘れんなよ」
「任しとき」
「今日はあったかいなぁ」
「…うん、もうすっかり春だな」
特別に寒いのが嫌いなわけではないけれど、やはり暖かくなるのは嬉しいものだ。春と言うのはいつもなら歓迎される季節の筈だった。だけど今年は、初めて春が来なければいいと思った。シゲから高校は京都の学校に行くと聞かされた日から。あの日から春なんか来なければいいと何度思った事だろう。
「ゴールデンウィークには、会えるやろか」
「…うーん、どうだろうな」
「一年のうちからレギュ取り目指そうぜ」
「当然や。どっちが先にレギュ入り出来るか競争な」
「…たつぼん、一人になっても泣いたらあかんで」
「泣くかよ。ガキじゃないんだから」
「お前こそ泣くんじゃねぇぞ」
「うーん、ちょっと自信ないかも」
シゲがいつもの様にからかう口調で言った。だから俺もいつもの様にムキになって返した。
そんな『いつもの様に』が、明日からはいつもではなくなるのだ。
シゲがちらりと時計を覗き込むのを見て、心臓がちくりと痛んだ。
なぁ、シゲ。お前本当に。
「そろそろ、やな」
「…あぁ。そうだな」
バッグを肩に掛けてシゲがゆっくりと電車に乗り込む。見慣れた背中を目を凝らして見つめた。なぁ、シゲ。お前本当に、行くのか?
今ここでお前が、『冗談やで。俺がたつぼんを置いて行く筈ないやん。…引っ掛かった?』と笑いながら言ったとしても絶対に怒らないから。なぁ、シゲ。
シゲの乗る電車の発車を知らせるアナウンスが流れる。出発のベルがなる。体がぴくりと跳ねた。シゲ、お前、本当に行くの?俺を置いて?
ベルが鳴っている間、シゲをずっと見つめていた。シゲも俺を見ている。シゲの顔には表情がない。シゲの瞳に写っている俺はきっと情けない顔をしているだろう。
「…たつぼん、電話するから」
「…毎日しろ」
「毎日する。……元気でな」
「…お前も」
静かにドアが閉まる。俺とシゲは厚い扉に隔てられてしまった。シゲが少しだけ微笑んで、ガラス越しに小さく手を振った。
今なら言ってもいいだろうか。今なら、シゲには聞こえない。俺の声は届かない。ずっと言いたくて、言えなかった言葉。
「…シゲ、行くな」
小さく呟いた言葉を飲み込んで、ゆっくりと電車は動き出す。シゲを乗せて。
シゲが行ってしまう。俺から離れて行ってしまう。
「…シゲッ」
2歩程後を追った所で足を止めた。みるみるうちに加速していく電車は、あっと言う間にホームから滑り出て行ってしまった。
どんどん小さくなっていくその姿をずっと目で追った。もう秒単位で、シゲが俺から遠ざかって行く。
「…シ、ゲ」
シゲから高校は京都の学校に行くと聞かされた日からずっと言いたかった。『行くな』と。何度も何度も口から出そうになった。その度に飲み込んだ。
だってそれはシゲが自分の将来の為に決めた事。サッカーで上を目指すのなら、一番いい選択なのだ。それは分かっている。頭では分かっていても、シゲが自分の側から居なくなるその淋しさを思うと、そんな所へ行くな、と何度心の中で叫んだだろう。
やがてどんなに目を凝らしても、シゲを乗せた電車の姿は見えなくなった。目に入るのはどこまでも伸びている線路と抜ける様な青い空。あぁ、今日はこんなに天気が良かったんだ、と今初めて気付いた。
これで会えなくなるわけじゃない。少し我慢すれば、また直ぐに会える。ゴールデンウィークが無理なら、きっと夏休みに。
声だっていつでも聞ける。その為に二人で一緒に携帯電話も買った。声が聞きたくなったら、いつでも電話出来る様にと。お前の声が突然聞きたくなったら、それが例え夜中の3時だろうと遠慮なく電話してやるから。覚悟しとけよ、シゲ。
でも違う。今までとは、違うのだ。今までの様に、会いたい時に直ぐ会う事は出来ない。明日会えるのが当たり前だったのに、それが当たり前じゃない。一緒に笑い合う事も、唇を触れ合わせる事も、抱き締められる事も。そんな今まで当たり前に出来ていた事が、当たり前には出来ない距離に離れてしまったんだ。
どうして行くんだよ、シゲ。俺を置いて。
「…あれ、変だ」
不意に景色が滲んだ。瞬きをする事も忘れて、あいつが去って行った方向を見つめていた。きっと目を開きっぱなしにしてたから、目が疲れたんだろう。瞼から熱い物が一粒零れ落ちた。
「…なんだよ、これ」
最初の一つが落ちると、後は堰を切ったかの様に次から次へと滴が流れ落ちてくる。
『一人になっても泣いたらあかんで』
先ほどのシゲのからかう様な顔が浮かんだ。
泣かねぇよ、シゲ。ガキじゃないんだから。
別に泣いているわけじゃない。あんまり一点を凝視し過ぎたから、目が疲れただけ。ただそれだけ。
勝手に目から水滴が出て来てるだけ。
泣いてない。
泣いてない。
泣いてない。
シゲが泣くなと言ったから。
これは涙なんかじゃない。
終(2006/05/02)