おつきみ
風のない夜にこつんと窓を叩く小さな音。読んでいた本から視線を上げて音のした方を見る。
少しの沈黙の後に続けて二つ。こつん、こつん。
窓を叩く様な物は何もない筈だから、この音は人為的な物だ。カーテンと窓を開いて外を覗くと、下の方から声が聞こえた。
「よ、たつぼん」
人んちの庭に入り込んで手を振る人影。仄かに届く街灯の光でぼんやりと金髪が写る。暗がりの中、その金髪の持ち主が笑っているのが見て取れた。
「何、シゲ。どうしたんだよ、お前。こんな時間に」
時計を見るともう少しで10時という時刻。
「うーんと、今下りて来られる?」
地面の方を指差してるシゲに向かって、ちょっと待ってろ、と小声同士の会話を一旦切り上げて窓から離れる。
音をなるべく立てない様に、それでも走るようにして階段を降りた。
こんな風にこんな時間にシゲがいきなりうちに来るなんて勿論初めての事で。何なんだよ、と疑問符を浮かべながらもちょっと胸がどきどきしているのが分かる。
静かに玄関のドアを閉めて、シゲが立っていた俺の部屋の下辺りまで急ぐ。庭に回り込むと金髪が芝生の上に座っていた。傍らにある白いビニール袋に手を突っ込んで。
慌てて来た俺とは対照的に、やけに寛いでいる、様に見える。
「どうした、シゲ。何か急用か?」
「そやなー、急用っちゃー急用やけど」
「…何だよ、それ」
「…あーと、そや。月」
「月?」
「月がめっちゃ綺麗やったから。たつぼんと一緒に見たい思て」
「…あ?」
急に思い立ったっちゅうわけや、のシゲの言葉に空を見上げる。 そこにあるのは暗い夜空に半月が少し痩せたくらいの半端な大きさの月。しかも端には雲がしっかりと掛かっていて、お世辞にも『めっちゃ綺麗』とは言い難い。
「…あの月を見て綺麗だと思ったのか?」
「綺麗やんか。あの中途半端な大きさといい、光を放ち過ぎない明るさといい」
「どういう感性をしてるんだ、お前は」
「研ぎ澄まされた感性かな。ちゅう事でお月見でもしよ。まぁまぁ、先ずは座って。ほい、これはたつぼんの」
夜にいきなり人んちに押し掛けてきて訳の分からない事を言いながら仕切る金髪。訝しげな視線を送る俺に、たつぼんの分、と手渡された物は、ミルクティーのペットボトルだった。そしてこれは俺の分、とビニール袋から取り出したのはこいつの大好物の炭酸飲料。
「これもあるで」
俺に見えるように手に取った物はコアラのマーチの箱。その蓋をぺりぺりと剥す。一つ食べては、お、偶に食べると美味いな、と機嫌のいい声で言った。
「ほら、たつぼん。そんなとこに突っ立てないで座り。これ一緒に食べよ」
「食べよって、お前何いきなり来て…」
仕切ってんだよ、と続けようとしたけれど、小さな箱を腕一杯に伸ばされて視線がそこに行く。シゲの顔を見てお菓子の箱に視線を戻して、つい一つ手に取り口に放り込むと甘い味が口の中に広がった。美味い。
ほら、座って、と芝生をぽんぽんと叩くシゲの横に、なんなんだよ、とぼやきながらも腰を下ろした。隣りでシゲが嬉しそうにしながらコーラのキャップを開けた。
研ぎ澄まされた感性の持ち主曰く、『めっちゃ綺麗』な中途半端な大きさの月の下、今しがた受け取ったミルクティーを取り敢えずこくこくと飲み込む。喉に流れて行く甘さが心地良い。
母さんたちが居る居間は家の向こう側。話し声は届かないだろうけど、夜と言う事もあって自然に声は小さな物になる。
「で、お前いきなりどうしたんだ?」
まさか本当に月見に誘いに来たわけじゃないだろう、と思った所でふと思い付いた。
「あ、ひょっとして宿題写させて、とかか?」
「えー?」
「そうなのか?でもそう言うのは自分でやらなきゃ駄目だろ」
ミルクティーとコアラのマーチはもう貰ってしまったけど。でも駄目だ。
そう言うとシゲが苦笑しながら、ちゃう、ちゃう、と手を振った。
「宿題とかそういうのとちゃうねん」
「じゃあ、なんなんだよ」
「実はな…」
うーん、とやけに神妙な顔をしたと思ったら、シゲが体を少しだけこちらに寄せて来た。
「…たつぼんにだけは打ち明けるけど。実は俺、超能力者やねん」
「…は?」
小さな声を更に潜めて突拍子もない事を言い出したヤツの顔を見遣る。そこにあるのはあまり見る機会のない真剣な表情で。実はテレパシー使えるねん、と自分の頭を指差した。
「なんだよ、それ」
「さっきたつぼん、俺の事考えてたやろ。シゲ何してるのかなぁ、シゲに会いたいなぁって。たつぼんのその思考をキャッチしてな。たつぼんが俺に会いたがってる、これは急いで行かな思て、部屋飛び出して来たん」
真面目な顔で話すシゲの口から出て来た言葉はふざけた事この上ない物で。人が真面目に聞いてれば、と呆れた声で言ってやると、にかっとシゲが愉快そうに笑った。
「えー、ほんまやで。な、さっき思ってたやろ、俺の事」
「残念でした、全然外れ。お前が来るずっと前から、本読んでた。それに夢中になってたからお前の事なんか考えてる暇はなかったよ」
「推理小説?」
「そ。いいところだったのに、お前に邪魔された」
それは本当の事。丁度佳境だったのに、とミルクティーを一口飲んだ。
「俺の事考えてなかった?」
「ないない、全然」
「あら、変やな。シゲちゃんのテレパス、弱まったかい」
「そんなの初めから持ってないだろ、お前」
ばれた?とシゲが笑うから当たり前だと一緒に笑った。
そんな物をお前が持っていて堪るか。持っていたら困る。
笑いながら曇った夜空を見上げた。あれは何日目の月だろう。別に見頃でも何でもない大きさの月の下、お手軽価格のお菓子と飲み物での変な即席の月見。それでもあの半端な月が何故か『めっちゃ綺麗』に見えてしまうのは、隣りに金髪が居るせいだ。甘い小さなお菓子をもう一つ口に放り込む。
「お前、本当に俺に何か用事あったんじゃねぇの?」
「用事っちゅうーかな。こっから先の所に新しくファミマ出来たやろ?」
「あぁ、そう言えば」
先日うちから少し離れた所に新しいコンビニがオープンした。
「ちょっと小腹が空いたし新しいトコ様子見がてらに行って来たん。そこ行く前にここ通ったらたつぼんの部屋に灯り付いてたの見えたから、部屋に居るんやなって」
「うん」
「たつぼんの事やから難しい顔して数式でも解いてるんやろか、息抜きの差し入れでも入れたろ思て寄ってみたん」
勉強なんかしてなかったけどな、と返してミルクティーを一口煽る。
シゲの寺から新しく出来たコンビニの途中にこの家がある。シゲの行き付けのコンビニはセブンだったけど、今度から新しく出来たファミマにしたらいいのに、と思う。そうしたらそこに行く度にこいつはここを通る。
ここ通る度に俺の部屋を見上げるシゲの姿を想像して、ちょっといいと思ってしまった。なんだかシゲが俺に焦がれているようで。
「…でもま、喉が乾いたから何か飲みたいと思ってたとこだし、丁度良かったんだけど。ありがとな」
そう言えば未だお礼を言ってなかったっけ、と思い出して、ペットボトルを目の高さに掲げた。
「お、やっぱり?そうやろ?さっきな、たつぼんが喉乾いたなー、って言ってるテレパシーキャッチしてな。で、慌てて…」
「それはもういい。適当な事ばっかり言ってんじゃねぇ」
ぴしゃりと言ってやると、本当の事なのにー、と大袈裟にぶーたれるーシゲに笑った。だからお前がそんな力を持っていたら困るんだよ。
遠慮もせずにお菓子の箱に腕を伸ばす。そう言えばこのスナックだって、シゲが自分の好みで買うならこんな甘い物は買わない。シゲはそんなに甘い物好きじゃない。だからこのコアラのマーチは明らかに俺の好みに合わせて選んでくれた物だ。
そんな小さな事にさえ、嬉しくて頬が緩んでしまう自分がちょっと恥ずかしい。
「小説、佳境やったの?」
「うん?」
「面白い所に来て邪魔して、俺、悪かった?」
淡い街灯の光の中、今はその輝きを潜めている金髪が殊勝な事を聞いてきた。でも顔には小さく笑いを浮かべて。きっと俺が迷惑だなんて思ってない事は分かってて聞いている。ムカツク。
ムカツクけどしょうがない。俺の好きな物を買って来てくれたから。こっそり来るなんて楽しい事をしてくれたから。俺に会いに来てくれたから。
お前に会えるのはいつでも嬉しいから。お前の欲しがってる否定の言葉を言ってやるよ。
「…だから、丁度なんか飲みたいと思ってた所だって言っただろ。…別に悪くねぇよ」
つっけんどんに言ってやると、隣りの金髪が、そ、良かった、とにっこりと笑った。確信犯の笑顔で。
月の光の下で見るシゲの笑顔は、いつもよりも大人っぽくて綺麗に見えるなんて事はお前には言ってやらない。
だけど、お前が超能力なんて持ってなくて本当に良かったと思う。だってお前がそんな力を持っていたら、俺がいつでもお前の事を考えているのが丸分かりだから。
(2006/08/31)