器用な指先
「たつぼん、そこボタン取れそう」
練習が終った後の俺とシゲだけが残っている部室で、部誌を書いている俺に向ってシゲが人差し指を向けた。そこ、と指された先を見ると、確かに学ランの左腕のボタンが今にも落ちそうに糸が伸びている。
「ちょっとそれ、貸し。ボタン付けてやるから」
「え、いいよ、別に」
家に帰って母さんに付けて貰うから、と言ってるそばから、シゲが自分のバッグをゴソゴソと探る。そこから出て来たのは、シゲがいつも持ち歩いている黄色いソーイングセットだ。不良風金髪中学生と如何にも不釣合いの筈のそれが、こいつの手の中にあるとしっかりと馴染んでいるから不思議だ。
「そのまま帰ったら、途中で落とすかもしれんやろ?」
ほら、学ラン寄越し、と付ける気満々に伸ばされた腕を見て、それなら、と上着を脱いで渡した。
「じゃあ、頼む」
「はいな」
機嫌良くそれを受け取ると、慣れた手付きで針に糸を通す。そして手際良く布にボタンを括り付けて行く。リズミカルに往復する針の動き。手芸が特技の一つというこいつに取っては、ボタン付けくらい何の雑作もない作業なんだろう。
その無駄のない器用な流れに、部誌を書く手を止めて思わず見入ってしまった。それ程テクニックが必要な作業というわけではないと思うけど、普通の男子中学生ではこうは行かない。少なくとも俺には出来ない。
「お前、本当に器用だよな」
自分に出来ない事を目の前で安々とやってのける男に、素直に感嘆の言葉が出た。んー?と一瞬シゲがこちらを見て、直ぐに視線をボタンに落とす。
「そやろ、器用やろ」
「自分で言うな」
悔しいけどその通りではある。
「年季入ってるからなぁ、俺は」
「年季って?」
「んー、俺っておかんと二人暮しやったろ?おかん、仕事で遅うなる時もよくあってな」
「あぁ…」
前に聞いた事がある、シゲが置いて来た故郷の話。父親は他に家庭がある人だったと。生まれた時から母親と二人だけだったと。
「ボタン落として付けて貰おうにも、おかん、なかなか帰って来ぃひんし、そのままにしてたら忘れてボタンないまま学校行かなあかんかもしれんし」
金色の髪の下で、銀色のボタンが鈍く光る。
「シゲちゃん、ちっこい頃からスタイリッシュな男やったから。ボタンなしで歩くなんてかっこ悪、そんなんイヤや思て、頼りにならんおかんを頼るより自分で付けよか思ったんや」
「ふーん…」
「子どもの頃ってボタン飛ばす事多くて、よくこんな事してたな。そやから今のシゲちゃんの華麗なる手芸テクニックは、この頃からの鍛錬の賜物や」
「鍛錬っていう程の事かよ」
笑顔でシゲが偉そうに言うから、こちらも軽く突っ込みを入れた。小さく笑いながら。
だけど、何でもないようにシゲは笑うけど、よくこんな事をしていたというのは、それだけ一人で過ごす時間が長かったんじゃないだろうか。母親とすれ違っていた時間が多かったんじゃないだろうか。
小さなシゲが一人でなかなか帰って来ない母親を待っていた姿を想像すると、ちょっとだけ切なくなった。
それに今でこそ、誰よりも器用に針と糸を操るシゲだけど、最初からそんな風には出来なかったかもしれない。小さな柔らかい指に針を刺した事もあったかもしれない。そんな時にもシゲは、絆創膏を自分で貼ったのだろうか。
慣れた手付きでリズミカルに往復する針の動き。その骨張った指先を追うとはなしに目で追った。もうちょいやから、待っとってな、とさほど急ぐ風でもなくシゲが言う。
「急いでねぇし。ゆっくりでいいよ」
部誌の続きを書くべく、シャーペンを握り直した。別にゆっくりでいい。二人で過ごす、こんな時間が好きだから。
子どもの頃、一人で居て淋しくなかった?と聞いても、強がりのシゲは決して淋しかったなんて言わないだろうな。人に弱い所を見せるのが嫌いなシゲ。俺にだけはそんな面も見せてくれてもいいのに。見せてくれる日が来るんだろうか。
そんな事を思いながら、そっと器用な指先を見守った。
終(2008/08/25)